断章「上客」

 翌日、赤森はまだいつもの職場に出勤していた。夢見にお呼ばれした彼女のラボに臨時異動となるまでには、まだ少し日があったのだ。しかし、来たるその日に向けて気分はどんどん沈んでいくし、そればかりか今日は心穏やかであるはずの通常業務にさえイレギュラーが舞い込んできていた。
 「おはよう。なんか浮かない顔してるね……まあそりゃそうか。さすがに同情するわ」
タイムカードを押したばかりの詰所でそう話しかけてきたのは、赤森の同僚の事務員の女性、稲見だった。
 「あ、おはよう。何? 私そんなに顔に出てる?」
赤森の顔は誰がどう見ても悲哀そのものであった。目尻は下がり、眉間にはしわが寄り、世の全てを憂いているかのようだった。
 「私が上司なら早退させるかな……まあでも、そうもいかないんでしょ。今日は急な上客がやってくる日だもんね」
稲見は詰所のカウンター前に座って椅子を赤森の方向に回しながら言った。
 「上客ねぇ……確かなんだっけ、ヴィノムス? とかってところに送り込んでた被験者だったわよね。今度はどんな被験者なのよ……廃人? そもそも人間の形してる? もううんざりだわ」
赤森は心底不安そうな声でそう漏らした。
 「いやあんたね……報告だと私たちと同じくらいの歳の女の人だって。朝一で送迎してくるって聞いたからもうすぐ来るんじゃない? 搬送じゃなくて送迎って言われたから、そんな身構えなくても平気だと思うけど」
稲見はカウンターに頬杖を突きながらのんきに話した。
 「ならいいけど、あーあ、何もこんな時に来なくたってね……脳波検査の担当に私もついてるのよ。もうー」
赤森はそう言ってため息をついた。
 「ドンマイね。まあ、あんたは臨時異動だけど私もそろそろ仕事辞めようかなーとか思ってるし、お互い様じゃない?」
 「え、仕事辞めちゃうの? その後何かあてでもあるの?」
 「ないけど、この前なんか子供が来てたじゃない? あんたの知り合いだっていう。あの子見てたらさ、いいなー自由でって思っちゃったんだよね。やっぱり人間も自由であるべきよ。猫みたいに、華麗に鮮やかに……」
 「は? ホントに真夏ちゃんみたいなこと言ってる……猫みたいに自由な職業って何よ、怪盗とか?」
 「怪盗! アハハ、面白いね。今の仕事よりは稼げそうー。わざわざ偽名とか考えたりしてね」
二人がそんなしょうもない会話をしていると、玄関の自動ドアが開き、二人の男性職員に引率されて1人の女性が施設に入ってきた。赤森はそれに気づいてすぐにそちらへと向かっていく。
 「あ、おはようございます……こちらの方が、例の?」
赤森は引率の職員に尋ねた。
 「はい、検査に来られた永見弥生さんです。じゃあ、検査室の方までお連れしてください」
赤森に尋ねられた職員はそう言うと、もう一人の職員と一緒に足早に去っていった。
 「あー、そんないきなりー」
などと言っていたが赤森は傍らの永見が不安そうな顔をしているのが視界に入った。
 「あのー、私……前にいたヴィノムスって組織ではすごく、こう……いい扱いを受けてなくて……こちらではその、どういったことを……?」
永見は遠慮がちに赤森に尋ねてきた。
 「え!! ま、まあその、脳波検査とか? そ、そんなに緊張しなくても、多分……大丈夫、かなって」
赤森は確かなことが言えず困惑し、彼女を安心させようと肩にポンと手を添えたが、その瞬間奇妙な感覚に襲われた。硬い。冷たい。服の上からではあるが、これはまず人間の肌の感触ではない。なんだ? 鎧でも着ているのか? と一瞬のうちに驚愕の表情を浮かべていると、向こうから声がする。
 「おはようございます。ようこそお越しくださいました。わたくし、こちらのラボの主任を務めております那次と申します」
そう言いながら歩いてきたのは赤森の上司の名治子だった。
 「主任―!! もう、お任せしても……??」
赤森は謎の上客を完全に上司に丸投げしようとしていた。
 「ええ。検査の前にわたくしが応対しますから、赤森さんは検査の準備に行ってください」
名治子はそう告げると、笑顔で永見を応接室へと誘導していった。

 「コーヒーなど、飲まれますか?」
名治子はセラピーに使う部屋に招いた永見を席に着かせ、いつものようにコーヒーを淹れようとしていた。
 「いただきます。ブラックでいいですよ。私、飲食は普通にできますから……」
永見は少し安心した声で言った。
 「ああ、それは存じ上げていますよ。わたくしがお尋ねしたのは単に好みの問題です。コーヒー、あまり好きじゃない方もいますからね」
名治子は微笑みながらドリッパーのセットを始めた。
 「貴女のヴィノムスでの活動と、今回の騒動についてはあちらに派遣した職員や一部当事者からの報告で細かい部分まで伝わっております。……INCTが提供した技術とはいえ、まさかこのような……本来なら何人も貴女のような扱いを受けるべきではありません。この点についてはわたくしが代表して謝罪いたします」
名治子はそう言って頭を下げた。だが彼女は半分嘘をついていた。INCTがヴィノムスに技術提供を行ったのは、この技術を使った実験が人道的な形では行えないことがわかっているからに他ならない。INCTは技術提供という名目で、反社会的組織であるヴィノムスに非人道的な実験を大々的に押しつけたにすぎないのである。そのことは一つのラボを請け負う主任である名治子もよく知っていることだった。
 「もういいんです。本来は私、ヴィノムスみたいな施設で管理されて一生過ごさなきゃいけないんでしょう? この体は、全身貴重なデータの塊ですもんね」
永見がそう言ってシャツのボタンを外すと、鎖骨あたりの金属部が露出した。彼女は、首から下は全身機械の体をしたサイボーグであった。それはまさに”ヒトの脳と機械を接続する”というINCTの研究目標の究極の形の一つであり、彼女はヴィノムスに提供した技術で作られたその実験体の一体であった。
 「ええ、まさしく……ですが、INCTは貴女を施設に拘束することはしません。出来る限り一般社会での生活を保障します。残念ながら、技術の漏洩を避けるための措置は都度取らせていただきますが……今日はその話がしたいわけではないのです。わたくしは率直に、貴女が今回の騒動で何を感じたかが知りたいのです。何でも構いません。よければお話してみてください」
名治子は彼女の金属の体を目の当たりにしても特にひるむ様子なく、落ち着いてそう話し席に腰かけた。
 「そうですね……思うところは色々ありました。一番は、ヴィノムスの非道さだけど……それはヴィノムスがなくなった今考えても仕方がないし、それより……私は、あの場所での出会いを大事にしたい。こんな体にはなってしまったけど……孤児院で生き別れた妹とも再会することができたから。でもそれとは別に、一番記憶に残ってるのは私の『前任者』のことかな」
そう言いながら、永見は今しがた淹れられたコーヒーに映る自分の姿を見つめた。
 「前任者……つまり、あの場において『コア』の役割を負わされていた彼女のことですね。彼女のことは……」
名治子は残念だった、と言うのをためらった。永見の考えが聞きたかったからだ。
 「うん……途中で記憶が戻ってすぐに、私は彼女が辿った運命に察しがついてしまった。察しがつくだけの情報が、揃っていたから。ただ……その事実があんまりだったから、私は仕方がないことだったんだと溜飲を下げようとしていた。だけどそれって、本当は間違っていたのかも知れないと思ってるの」
永見はそう言うとコーヒーを一口すすった。
 「なるほど。本当はその事実にもっと向き合うべきだったと?」
名治子は尋ねた。
 「そうね。正確なことを言うと、結果論になってしまうけど……彼女の意識は、『コア』としてではなく一個人としての存在、記憶を求めていた。でも、故人として彼女から目を背けてしまえば、彼女の代わりにそれを留めておくことすら、できなくなってしまう。本当は、彼女と同じ処置を受けた後任の『コア』である私にはそのことがわかっていたはずだったのにね……けど、そんな私じゃなく、彼女の存在そのものを最後まで諦めなかった人が一人いたんだ」
永見はそう話すと少し笑みを浮かべた。
 「ええ、ええ。彼ですね。彼とはわたくしも連絡を取る機会がありました。その、仮想空間についてはわたくしどもも研究を行っておりましてですね……おっと、その話は今は関係ありませんね。続けてください」
名治子もそう言うとコーヒーを一口すすり、永見の言葉を待った。
 「ああ、そういえば今は彼、そういう研究してるんでしたっけ。そう、運河京谷……ヴィノムスでは一応私の上司だった人。あの仮想空間を設計しておきながらも、その『コア』としての悲運を彼女に背負わせまいと文字通り全てを賭けていた。その姿勢、あのときは真に迫りすぎて正直少し引いてたところがあったけど……今にして思えば、私が怖いと思っていたのは彼自身ではなくて、彼の願いが成就しないことだったんだ。もうどうにもならないことだってわかっていたからこそ、その必死さが痛々しくて直視できなかった……でも、本当は逆だった。彼が絶対に諦めなかったから、彼女の存在と記憶に触れることができたんだ。本当の家族だったわけでもないのに、それでもあんなにも……だから、私が察していた結果なんていうのは単なる事実でしかなくて。皆で最後に少しだけ彼女の思いを汲み取ることができたのは間違いなく、たった一人だけ彼女の願いを手放さずにいることができた彼のお陰だったんだなって」
永見がそう話すのを名治子はまっすぐに彼女を見つめて聞いていた。
 「そうですね。彼の思いがあってこそ、貴女も後悔の念を抱くことなくここに居ることができるのだとよくわかりました。なるほど……いえ、彼が随分とヒトの幸せというものに情念を燃やしている様子があったもので……その理由にもこれで納得がいきました。今はあの場で共にいた技術者の方と開発を行っているようですが、なるほどそういう……」
名治子はその技術者、ALS患者であるという藤原響のことを思い出していた。
 「そうそう、なんか色々あったみたいだけど、あの人がハッキングしてくれなかったら二人ともヴィノムスから脱出できなかっただろうし……とにかく、大変だったけどみんながみんな頑張ったおかげで、やるべきことができたのかなって」
永見のその言葉に名治子が大きくうなずくと、備え付けの電話に内線がかかってきた。名治子は受話器を取り、
 「あ、はい。そうです。ええ、わかりました。では今から」
と受け答えして受話器を置いた。
 「検査の方にお呼び出しが入りました。名残惜しいですが……貴重なお話が聞けて良かったです。今後もお話しする機会があると思いますが、貴女が感じたこと、共有したいことなどなんでもお伝えくださいね」
名治子はそう言うと立ち上がり、脳波検査室から迎えにやってきた赤森に彼女のことを引き継いだ。そして、通路を歩いていく彼女に手を振りながら少しだけ、自分にとって「本当の家族ではないけれど守るべきもの」に思いを馳せるのだった。

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