「Nuj計画」 終幕

 「はぁ、びっくりした……」
真夏はひとしきり驚愕を放出し終わるとようやく落ち着いた。
 「大きな声出すなって言ったじゃないか……でも持って帰るのが不安でさ。無事帰れるように手配してくれるらしいけど……」
深木は喜びよりは不安の方が大きいようだった。
 「うん……気をつけてね。絶対私みたいな人に言っちゃダメだよ……」
と真夏は心配そうに言った。言わせたくせに、と深木は言わなかったが二度目はないものと肝に銘じた。
 「それはそれとして……名治子の誠意はよくわかったけど、珠子とはなんかお話した? 珠子も計画のこと知っててもんちゃんのこと誘い出したんでしょ」
と真夏が尋ねると、深木は少しため息をついて
 「まあね。けど別に赤森さんのことは悪く思ってないよ。あの先生、赤森さんの上司なんだろ? 赤森さんにも謝られたけど……実を言うと僕、初めて赤森さんと会ったとき、坂で後ろからぶつかって赤森さんを前のめりに転ばせたことがあってね。それも済んだこととはいえ……なんかそれを思い出すとまあ、おあいこってことでいいかなって」
と疲れ切った様子で話した。真夏はそれを聞いて乾いた笑いを浮かべ、
 「みんな色々あったんだね……けど、こんなことがあってから言うのもなんだけど……せっかく知り合ったんだし、名治子も珠子もこれからはもんちゃんに協力してくれると思うんだ。だからさ……」
真夏はそう言うと、少し遠慮がちに目を伏せてくせ毛の先をいじり始めた。
 「友達でいてねって言いたいの? まあ、やだね、とは言わないよ……僕の兄妹も病院にかからなきゃいけないこともあるかも知れないし……そのときはあてにさせてもらうことにしたんだ」
深木はそう話し、ほんの少し自嘲気味な笑みを浮かべた。真夏はそれを聞くと笑顔になった。そしてスマホを取り出して少し操作しながら、
 「そのときは私が見張ってるから安心してて! てなわけで、ほい!」
と言って突き付けてきた。
 「LINEか、そういえば交換してなかったっけ……じゃあ、よろしく頼むよ」
そうして深木もスマホを取り出して、2人はLINEを交換したのだった。

 それから例の電話ボックスまで来ると、真夏はそこで降ろされることになった。深木は家の近くまで乗せてもらうことになっているのでそのまま乗っている。
 「もんちゃん、またね!」
と真夏は車の中の深木に手を振った。深木は軽く手を振り返し、やがてドアは自動で閉まって車はそのまま走っていった。真夏はその後姿を眺めながらゆっくりと歩きだした。ふと空に目を遣ると、既に陽は落ちて頭上には星空が広がっていた。団地の他には何もない田舎の道。真夏はそっと猫耳つきヘッドホンをかぶり、散歩の続きを始める。唐突に、海を見ていこうと思った。近所の海岸は彼女がよく行く散歩ルートの一つだ。しなやかな足取りで歩く真夏の髪が、すれ違う夜風に触れてたなびく。やがて海岸が見えてきた。彼女はコンクリートの石段に座る顔見知りの猫に挨拶し、砂浜に降りて行った。凪いだ夜の海は、小さな波だけを砂浜に伝え、静かに星空と月を映している。真夏は音もなく砂浜を歩き、横目に海を眺めながらいつも座っている流木に腰かけた。嗚呼、こんな静かな海なのに。本当に、この遥かな彼方……その淵には、想像もつかないような何かが眠っているというのか。その事実を突きつけられた者、海からの呼び声に抗う者たちに、安寧が許される日は訪れるのだろうか。ふと真夏は右腕につけているブレスレットを眺めた。自分は色々なものに守られている。であれば……
 「真夏ちゃん」
後ろから男性の声がした。振り返るとそこには、眼鏡をかけたスーツのサラリーマンの姿があった。
 「おじさん!」
真夏は立ち上がり、笑みを浮かべた。そこに立っていたのは真夏を迎えに来た奈治男だった。
 「なんで私がここにいるってわかったの?」
真夏が尋ねると、
 「名治子から、車で近くまで送ったと聞いてそろそろ帰ってくると思っていたんだけど……真夏ちゃんのことだから、この辺で寄り道している気がしてね。おじさんも仕事から帰って来たばかりなんだ」
と奈治男は言った。
 「帰ろっか」
 「うん。帰ったら散らかしっぱなしの部屋を片付けるんだよ」
 「えー」
そうして2人は家路につく。真夏には、自分が何をするべきかはわかっていた。自分に手を差し伸べてくれる人々に感謝すること。その恩に報いること。その上で、自分の信じた方向へ進んで行くこと。大丈夫だ。その道行きがどんなに困難で遠くても、きっと最後には上手くいく。猫はいつだって、家に帰る方法を知っているものだから──

 「お兄ちゃん、お帰り!」
 「やっと帰って来たのか! 俺お腹減っちゃったよ」
 「お兄ちゃん、楽しかった?」
水色の髪をした3人の少年少女が、狭い玄関で帰宅した少年に詰め寄る。
 「……ああ、ただいま。別に、遊びに行ってたわけじゃないから……はは。でもやっぱり家が一番安心するよ。ご飯、まだなんだな。じゃあ今日はちょっと、出前でも取ろうか……」
彼らの未来に何が待ち受けているかは、誰にも分らない。だが、その絆は守られた。少なくとも今は、お互いに小さな幸せを噛みしめることができるだろう。そして、その先に待っているものが受け入れがたい結末であったとしても……愛する者たちが寄り添い続ける限り、運命を受け入れることができるはずだ。それに彼らはもう孤独ではない。最後まで手を差し伸べてくれる人が、きっといるから。

 事件から数日後、ここは閑散としたINCTの、寂寞の掃き溜めのような静かな病室。
 「先生―、生きてますかー」
赤森は病室に入ってくるなり、向こうを向いて横になっている名治子に話しかけた。
 「ああ、赤森さんですか。ドアは閉めてくださいね。セラピーは秘密の保持が大原則ですから。よっこらしょ……うぅ……」
まだ簡単に寝返りが打てないので、痛みにうめきながら名治子が体位を変えて赤森の方を向いた。
 「誰も通りゃしないですけどね、こんなとこ。それにまだセラピー続けるつもりなんですか……先生の傷の方がよっぽど深いと思うんですけど」
赤森はベッドの傍らの丸椅子に座り、持ってきた買い物袋からメロンパンを取り出して名治子に渡した。
 「おお、ありがとうございます。メロンパンは真夏ちゃんの好物でもあるんですよ」
名治子はそう言って袋を開けたが、
 「真夏ちゃん、あんパンの方が好きだって言ってましたよ」
と赤森が言い返した。名治子はというと、
 「……まあ、人の好みは気まぐれに変わるものです。時間の中を生きている証ですね」
といつも通りのらりくらりと話をいい方に進めた。
 「なんでもいいんですけど、深木くんたちとは結局これっきりなんですか? あんな大金渡して……私、こっちの主任からなんか言われないかずっとヒヤヒヤしてるんですよ」
赤森は困った顔をしながら言った。
 「とんでもない。治験のデータは臨床研究部の方に行っていますからね。謝礼もきちんとわたくしがそちらの部署に話を通して額を上乗せしたのですよ。今後、本人だけでなくかれの兄妹のデータも手に入る可能性がありますから、これほど貴重なデータに対する対価としては破格の金額です」
と、名治子は相変わらず表情一つ変えず言い放つ。
 「ひぃー、そういうことですか……じゃあ前金ってことですか? あえて大きな額を渡して、次の治験の誘いを断れなくするっていう……」
赤森は苦虫を噛み潰したような顔をして名治子に問いかけた。
 「前金ではありません。新たに検査をした際には、今回ほどではないにせよ相応の報酬をお渡ししますし、検査費用もこちらで負担します。必要なら治療も行う、と臨床研究部と話をつけています。それにこちらからお誘いせずとも、誰しも生きていれば必ず病院のお世話になるでしょうから……貴重なデータを長きにわたってモニタリングできるのですよ。しかも4人も。大ケガをした甲斐があったというものです」
名治子は懲りていない様子だった。
 「ケガは、本来しなくて済んだはずなんですけどね。もうあんなこと、次は協力しないですよ。真夏ちゃんが来てなかったらどんなことになっていたか……」
赤森はあきれた様子で釘を刺した。
 「ええ……その点に関してはご心配なく。わたくしとしてもむしろ、今後は逆に臨床研究部を牽制していかなければなりませんね。嗚呼、そのためにも本来のわたくしの研究で成果を挙げなくてはいけないのですが……」
名治子はそう言うと今日初めて浮かない表情をした。
 「そうですよ、Nuj計画はどうなるんですか。結局深木くんにVRを体験させられなかったですよね」
赤森は尋ねた。
 「はい。ですがそれは……実は、むしろ良かったかもしれないと思っています。ほら、あなたの話では……クトゥルフはバーチャルYoutuberに扮していたことがあったんですよね? それに、わたくしが体験したときも……邪悪なものたちはVR空間と現実の両方に干渉してきていました。ですから、深木くんを無闇にVR空間に連れて行ってしまうと……何らかの”呼び水”として作用してしまう可能性も否めないと後から思ったのです。ですから彼が万が一、この研究にもう一度関わりたいと願い出たときは……何か安全策を考えておかなければなりません」
名治子は目を瞑り、難しい顔をしながら話した。
 「あー、確かに……あとそれはそれとして、たしか先生が当初気になってたのは深木くんの体が変質したときの精神状態の変化でしたよね。それの聞き取りは……」
赤森がそう言うと名治子は少し渋い顔をし、
 「はい。それなんですが……結局、彼の体が変質している間は自我を失っているということが実際に確認できただけで、それ以上のことは何も……」
と話した。それを聞いて
 「それはその……要するに、運よく地雷を踏まずに済んだだけで、今回なんにも計画は進展しなかったってこと……ですよね?」
と、赤森はやや遠慮がちに尋ねたが、それは少々あんまりな現実でもあった。
 「はぁ……そうなのです。とはいえ、計画自体に日々何の進捗もないわけではありません。わたくしがこうして病床にいる間にも、VR空間に複製したわたくしがアバターと人格の研究を進めています。いっそ、当分Nuj計画の進行はそちらに任せるのも悪くはない選択です。問題ありません。今回はあくまでも新しいサンプルの獲得ができればラッキー、というくらいの心づもりだったので」
名治子は少し残念そうにしながらも、こうなっては仕方あるまい、という様子だった。
 「もう真夏ちゃんに体験させるとか、どうですか? 子どもだし」
赤森が言うと、
 「それも考えはしましたが……なかなかどうして、実験に身内は巻き込みたくないと思ってしまうのですよね。こればかりはひどいエゴだと嘲っていただいて構いません。ただ……」
名治子は顎に手を当てて何か考え始めた。
 「先生、大概ですよねぇ。前から思ってはいましたけど……で、ただ、何です?」
赤森は尋ねた。

 時は少し遡る。名治子は業務用のスマートフォンの画面に向かって何かを喋っていた。
 「Najiko、あなたに尋ねたいのですが」
画面の中には、仮想空間に立つ若い名治子の姿があった。
 「はい、なんでしょう」
彼女は答える。
 「昨日、わたくしの研究室に不明な入室ログがありました。何か知りませんか?」
 「わかりません。昨日のエピソードデータは記憶されていません」
 「……では、Morphee Gearは何か異常を検出しましたか?」
 「いいえ。ログには不正なアクセスや物理的な接触の痕跡は残されていません」
 「そうですか。ところで、格納されていた物理ディスクが1つなくなっている件については何わかりましたか?」
 「いいえ。今日の業務開始時にご報告した後、全てのログを洗い出しましたがディスクに記録と排出を行った形跡は見つかりませんでした」
 「……わかりました。もう結構です。通常業務に戻ってください」

名治子はそのやり取りを思い出していた。
 「いえ、何でもありません。ただ将来は、真夏ちゃんにも安全にVRを体験して楽しんでもらえればと思っただけです」
彼女はそう、いつも通りの不敵な笑みを浮かべながら答えるのだった。

 「はぁ、片付けって面倒だなー」
真夏は家に帰ってから数日、結局ろくに部屋を片付けようとしなかったが、奈治男が休みの日に彼女に散々掃除を促したので真夏は観念して渋々部屋を片付けていた。片付けの最中、彼女はふと机の上に置いたままにしていたポーチを手に取った。
 「まずは使ったものからしまわないとね……あれ? これって」
真夏はポーチの中から、スケルトンのケースに格納されたディスクを取り出した。
 「あー、持ってきちゃったんだこれ……使いようがないんだけどなぁ。でもあっちの名治子からのせっかくの贈り物だし……大事にしまっておかなくちゃ」
彼女は机の鍵のかかる引き出しに、そっとディスクを入れて鍵をかけた。
 「あっちの名治子もこうやって、大事に私のデータを持っててくれてるんだよね……いつか会えるかなー、私ちゃん2号に」
Nuj計画は、今も進んでいる。ただしその果てにどんなものが生まれるのか、それをはっきりとイメージできているのは、あの日、あのときの名治子AI以外に、この世には誰もいない。一人の研究者の思惑に巻き込まれた各々の運命の歯車は、一時は外れ落ちそうになりながらも、今や元通りに回り始めている。ただし……そこに1つだけ、余るはずのない歯車が落ちていて、いつか拾われるのを待っていることだけは、誰が知る由もないのであった──

おわり

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