「Nuj計画」 第9幕

 「おはよう、真夏ちゃん。いいわねー、若い子は早く寝てたくさん睡眠できて……」
赤森の声がした。彼女は既に布団をたたんで着替えを済ませていた。
 「うぅーん……なんか変わった夢を見ちゃったんだよね」
真夏はそんなことを言いながら布団を畳み始めたが目がまだしょぼしょぼしていた。それから身支度もそこそこに、そろそろ朝食でも食べに行こうかと言っているときのことだった。昨日の昼に聞いたばかりのあの非常ベルの音が突如鳴り響いた。けたたましい音に2人は一瞬固まったが、続いて流れるアナウンスを聞いて部屋を飛び出していくことになる。
 「緊急事態発生。緊急事態発生。3階東病棟の一般職員はただちに退避してください。繰り返します……」
そこは深木以外誰も入院していないエリアだった。
 「もんちゃんに何かあったんだ……行かなくちゃ!」
真夏はそう言うとあっという間に部屋から飛び出していく。赤森はもう追いかけるしかない。
 「えぇー!? 待ってよ!! 私達が行ってどうするのよー!!」
赤森はそう叫んだものの、困惑よりはなんとなく胸騒ぎがしていた。自分も行かなくてはならないような気がしていたのだ。

 「ウゥ……」
低い唸り声が聞こえる。それは3階東棟最奥の階段付近の病室から出てきた深木の声だった。
 「えっ……」
付近の曲がり角から病室前の廊下に出てきてすぐにその光景を見た真夏は、思考が停止してまち針のようにその場に棒立ちになった。そこには体の6割以上が深い青色に変色し、両手は水かきのついた異様な形状に、首にはエラまでついた異形の存在になり果てた深木の姿があった。だが、それだけではない。その近くに、血だまりの中に倒れて身じろぎ一つせず動かなくなっている見慣れた姿があった。
 「先生!!!」
後ろからすぐに追いついてきた赤森が叫んだ。それは名治子の姿だった。今2人が立っている場所は深木のところまで数メートルの距離があり、このままではすぐそばで倒れている名治子の方が危険な状態だ。すぐにその状況を把握した赤森は、廊下の真ん中に躍り出るとポケットから銀色のホイッスルを取り出し、思い切り吹いた。
 「ピィー!!」
と、警報に混じって甲高い音が鳴り響く。本来このホイッスルはビヤーキーを召喚するために使用するものだが、赤森はそれをお守り代わりに持ち歩いていた。今はビヤーキーの召喚に必要な条件が何一つ揃っていないため召喚はできないが、深木はその音色を不快に感じるようで、赤森の方に走ってきた。真夏は気力を振り絞り、赤森をターゲットにしている深木とうまくすれ違って名治子の方向に向かって行った。赤森は深木を引き付けて少しでも離れようとしたが、足がもつれてほとんど距離を稼げず、今やすっかり理性を失った深木にあっさりと追いつかれ、彼の鋭い爪を持つ手を振り下ろされようとしていた。振り返ってその様子を見ていた真夏が、
 「危ない!!!」
と叫ぶ。赤森は、
 「ウワーッ!!!」
と絶叫しながら咄嗟に両手をまっすぐ前に伸ばしていた。すると、振り下ろされた腕は見えない何かに当たって受け流されるようにして赤森から逸れ、勢い余った深木は回転して回れ右する形になった。すると今度は、先ほど叫んだ真夏と目が合った。深木は視界から消えた赤森からは興味が逸れ、目が合った真夏の方へと走っていく。赤森は再びホイッスルを吹いたが、もはや深木は振り返らない。
 「真夏ちゃん、逃げて!!!」
赤森は叫ぶが、真夏は恐怖で立っているのがやっとで、逃げ出すような瞬発力は発揮できなかった。それに、自分が逃げてしまえば名治子を助けられない。ならば、今しかない。ここで止めるしかない。真夏は両手を強く握りしめ、渾身の力を込めてその場に踏ん張った。深木は真夏の前で立ち止まり、先ほど赤森にしたように腕を振り上げた。
 「もんちゃん!!!」
真夏の強く握りしめられた右手の甲には灼けつくような感覚と共に、五芒星のマークが浮かび上がっていた。五芒星の中心には、燃える目のマークがついている。
 「目を覚ましなさい!!!」
真夏はそう叫びながら同時に、すばしっこく深木の懐に潜り込み、持てる全ての力をもって深木のみぞおちにパンチをお見舞いした。その瞬間、真夏は除夜の鐘でも衝いたかのような猛烈な手ごたえを感じたのだが、実際には深木はほんの少しのけぞっただけで、かろうじて一度彼の攻撃を中断する程度の衝撃しか与えられていなかった。真夏は、とっさにもうダメだと感じた。魔法の力が込められた拳は1回限り。手の甲に浮かび上がっていたマークも消えている。もうこれ以上の手はないのだ。だが、完全に諦めかけたそのとき、
 「ウ、ウゥウ……」
とうめき声を上げて、深木は後ずさりし始めた。両腕は震え、やがて膝をついた。そのとき、黄色く変色した両目から血の涙が噴き出し、顔や体のあちこちが腫れ上がり、痙攣してひどく悲痛な声を上げてのたうち回り始めた。
 「あっ……ああ!! も、もんちゃん……そんな、私……」
真夏はすっかり腰を抜かし、尻もちをついてその場に座り込んでしまった。深木は絶叫し、この世の全ての苦痛を一身に受けているかのように悶絶している。真夏には、その肉体は今にもバラバラになるのではないかとさえ思えた。
 「真夏ちゃん!!」
駆け寄ってきた赤森がしゃがんで真夏を抱き寄せようとしたとき、階段からぞろぞろと誰かが駆けつけてきた。
 「ここだ! こ、これは一体!?」
全身白い防護服を着た、6人ほどのエージェントの先頭の一人が言った。
 「誰かこの子を3階の304号休憩室に送ってあげて!」
赤森がすぐにエージェントに頼むと、向こうの方から声がした。
 「彼を……拘束してください……殺さないで……」
それは血だまりの中を顔面蒼白で這いつくばってくる名治子の声だった。
 「先生!! あ、隊員さん、この子頼みますよ! あっちもこっちも急患!! 向こうは拘束して鎮静剤、あっちは止血して”搬出用”エレベーターで1階に運ぶわ。急いで!!」
赤森はそう言うと先頭のエージェントに真夏を託し、名治子の方に向かって走っていった。2人のエージェントが素早く赤森と共にそちらに向かう。
 「傷の範囲が広い。体位を変えて圧迫! あとストレッチャー用意して」
一人のエージェントがもう一人に指示を出した。赤森と一人のエージェントでストレッチャーを広げ、そこに仰向けにした名治子を載せる。
 「1,2……よし! 圧迫しながら移送する」
だが名治子は弱々しく右手を上げて、
 「待って、彼を……傷つけないで……」
と息も絶え絶えに言った。目はうつろで意識がもうろうとしているようで、誰に言っているのかも定かではない。
 「先生、大丈夫ですよ……行きましょう」
手際よく複数枚の布によってストレッチャーに縛り付けられている名治子に向かって赤森は静かに言った。反対側では3人のエージェントが、のたうち回る深木を拘束してすぐ近くの病室に運び込むところだった。やがて廊下にはエージェント一人と真夏だけが残り、警報も止んだ。
 「さあ、行きましょう。立てるかい?」
防護服を着たエージェントはくぐもった声で真夏に話しかけた。真夏は憔悴しきって無表情のままスッと立ち上がり、何も言わずついていった。

 「ここだね。多分さっきのお姉さんが迎えに来るから、中で待っててもらえるかな」
エージェントは304号休憩室の前で真夏にそう言ったが、真夏は返事もせずぼんやりしていたのでエージェントが代わりに扉を開けてくれてようやく中に入っていった。部屋の中は、畳んだだけでまだ押し入れにしまっていない布団と、2人の荷物が雑に置かれている。真夏は靴を脱いでその辺に散らばすと、力なく部屋の入口付近に座って脱力した。色々な考えが頭をよぎった。私のせいだ。名治子は早朝に深木に会いに行ったのだろうが、前日自分が余計なことを言ったから、名治子との提案と板挟みになって強いストレスがかかったに違いない。そのせいで、名治子も深木も取り返しのつかないことになったかもしれない。特に、深木の方は、自分の手で殴った結果致命傷を与えてしまったに違いないと真夏は考えていた。魔法のことは何もわからないが、バーストがどのような”祝福”を施したのか、今の彼女には予想がついた。バーストは、人間には関心がないようなことを言っていた。真夏のことは猫の一種くらいに思っているとも。ましてや、脅威となる相手を「おぞましい」と称していた。つまり、あの祝福は災いから身を守る加護でも、傷ついた者を癒す力でもなかった。自らの手で誰かを守るため、勇猛な猫のように敵に立ち向かうであろう真夏が九死に一生を得るために……邪悪なものを完膚なきまでに”破壊する”力が、そこには込められていたのだ。
 「うぅ……うぇ……私、こんなつもりじゃ……」
真夏はどうしようもなくなって、小さく震えながらさめざめと泣いていた。たとえ周りの大人を振り回しても、すべてが良い方向に進むようにと信じて、自分の信念に従って行動してきた結果が何よりもただ、彼女を苦しめていた。

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