「Nuj計画」 第10幕

 「真夏ちゃん、いる?」
そう言って入ってきたのは赤森だった。真夏が部屋に戻ってきてからは1時間ほど経過していた。入室するとすぐに、真夏が返事をするまでもなく和室の入り口で人形のように力なく座って死んだ目をしている真夏の姿が目に入った。
 「え……ちょっと、だ、大丈夫??」
赤森は困惑して真夏に駆け寄った。
 「ケガしたの? どこか痛む?」
しゃがんで目線の高さを合わせてきた赤森に尋ねられ、真夏は静かに首を振った。
 「じゃあ、あれから何かあったの? 誰か来たりした?」
さらにそう尋ねられ、真夏は再び首を横に振る。
 「じゃあずっと落ち込んでたのね……あなたのことだからてっきりもう、勝手にどこかに飛び出して行っちゃってるかと思ってたんだけど」
赤森がそう言うと、真夏は少しうつむいて唇を噛み締め、ぎゅっと赤森の服を掴んだ。その手は少し震えており、涙も枯れたかと思われた真夏の目からふと一滴の涙がぽとっと零れ落ちた。すっかり弱ってしまった真夏のことを流石に気の毒に思い、赤森は優しく頭を撫でた後、
 「ほら、お腹すいたんじゃない? 結局朝何も食べられなかったし……そう思って売店でパン買ってきたのよ。ほら、メロンパン好きでしょ、メロンパン」
と、つとめて笑顔で話しかけた。真夏は、蚊の鳴くような声で
 「あんパンの方が好き」
と答えた。

 その後二人はとりあえず布団をしまい、部屋の真ん中の机のところまで移動して赤森が買ってきたパンを食べ始めた。赤森はポットにも水を入れてはみたが、沸くまでに少しかかりそうだった。
 「食欲があってよかった。めちゃメロンパン食べてるじゃない……」
赤森がそう言うと、クリームが入ったちょっといいメロンパンを頬張りながら真夏は恥ずかしそうに
 「うん、お腹は空いてたから……」
と答えた。赤森は少し安心して、
 「よかった。あなたが元気になってくれないと、私も参っちゃうでしょ」
と、自分も真夏が見向きもしなかったちくわの入ったパンにかじりついた。
 「ごめんね……私のせいで、みんなめちゃくちゃになっちゃったんだ……」
真夏はそう言うとまた泣きそうになっていた。
 「そっか、なんでそんなに落ち込んでるのかと思ったら……でもどうして自分のせいだと思うの? なんていうか、真夏ちゃんが来たから悪い結果になったんだとは限らないと思わない?」
と赤森は尋ねた。それは諭したり慰めたりというよりは、彼女の純粋な疑問であった。
 「どうして? 実際にこんなひどい結果になってるでしょ……?」
真夏は聞き返した。
 「それが、実は先生はね、出血は結構してたけど傷は大したことなくて……応急処置はあのとき駆けつけた人たちに任せてたけど、その後私が手伝った処置が珍しく……いや、いつも通り上手くいってね。今はもう普通にお話できると思うわ。でももしあのとき、私達が駆けつけなかったら……本当に殺されてたかもしれないのよ?」
赤森がそう話すと真夏は少しだけ安心したのか、ほっと息をついて力が抜けたようだった。
 「それは、よかったけどさ……でも、私が昨日もんちゃんと会わなければ、きっとこんなことには……」
真夏がそう言ってまた少しうつむくと、
 「神はサイコロを振らない、なんてよく言うけど……「選ばれなかった方の未来は誰も観測できない」って、いつも先生が言ってるの、知ってる?」
と赤森は尋ねてきた。真夏は赤森の話がピンと来なかったようで首をかしげていた。
 「つまり、真夏ちゃんが来なかったり、深木くんと会わなかったりした結果今どうなってるかは誰にもわかんないってこと。もしかしたら、その場合今何も起きてないかも知れないし、もっと酷いことになってたかもしれないし……それは誰も、見たり確かめたりはできないのよ」
赤森がそう説明すると、真夏は何か考えるように黙り込んだ。
 「そもそも、真夏ちゃんはまだここに来た本来の目的を果たしてないんじゃない? 先生に会いに来たんでしょ」
赤森がそう続けると、真夏はパンの最後のひとかけを飲み込み、少し神妙な表情になった。
 「私……名治子のところに行く」
真夏はそう言ってスッと立ち上がった。
 「……うん。じゃあ教えとくね。先生は1階の処置室で治療した後、近くの病室で休んでるわ。一応、他の職員には知られないようにしてるから……搬出用のエレベーターで行ってみて。ほとんど誰にも会わずに済むわ」
赤森がそう教えている間に、真夏は部屋に置きっぱなしにしていたネコ耳つきのヘッドホンを首にかけていた。
 「それで、もんちゃんの方は……どうなったの?」
真夏は恐る恐る尋ねた。
 「私、ずっと先生の方についてたからまだ何も……これから見に行ってみるわ。何かわかったら、連絡するから……」
と、赤森も再び出ていく支度を始めた。

 不思議なことに、始業時間になってからのINCTはとても静かだ。各々が持ち場に籠っているからなのか、何か特殊な防音措置がされているからなのかはわからない。だが、真夏はこの静かさが好きだった。彼女は耳が良く、ネコ耳つきのヘッドホンをつけているのは、いつも音楽を聴いているからではなくイヤーマフ代わりにして騒音を緩和しているからだった。ほとんど無音のように思える、窓からの自然光に照らされた殺風景な白い廊下を歩きながら、真夏は首にかけていたヘッドホンをかぶった。そしてパーカーのポケットに手を突っ込んで、コンクリートの塀の上をバランスよく歩く猫のように、堂々と闊歩していく。その始まりから、電光石火のごとくひっかきまわしてきた物語を精算する時が近づいていた。

 搬出用のエレベーターとは、要するに遺体を搬出するためのエレベーターだ。搬出された先で関係ない人物と鉢合わせないようにフロアが設計されている。そりゃ誰にも会わずに済むだろう、と真夏は思っていたし、そんなところから病室に運ばれた名治子が少し不憫でもあった。エレベーターが1階で開くと、また殺風景な、少し光の入りにくい通路が広がっていた。少し歩くと近くの詰め所で事務仕事をしている職員が見えたが、かれらは足音を立てずに歩いていく真夏に目もくれなかったので真夏は本当に誰に会うこともなく付近の病室までたどり着いた。ここには一人しか入っていない。そっと中を覗き込むと、あっち側を向いて横になり、点滴に繋がれている名治子の姿があった。
 「名治子!」
真夏は部屋に入りながら声をかけた。名治子は少しうめきながら体を反対側に向け、ついに真夏の姿を見た。
 「真夏ちゃん……ああ、あの時廊下で見えたのは……白昼夢ではなかったんですね。ケガなどしていませんか?」
名治子はそう言うとまだ少し血色が悪い顔に穏やかな笑みを浮かべた。
 「うん、私は大丈夫だよ。……私が来てること、誰からも聞いてなかったの?」
と、真夏が尋ねると名治子は静かにうなずいた。
 「ええ、誰からも全く……けれど、これで少し疑問に思っていたことに説明がつきそうな気がしてきました。大方、わたくしに会いに深木くんと同じ車に乗ってきて、ここまですれ違っていたのでしょう」
名治子は少し嬉しそうだった。図星だった真夏はポリポリと顔をかきながら
 「まあ、そんなとこなんだけどさ……それはそうと、名治子こそケガは……珠子は大丈夫そうって言ってたけど、本当に平気なの?」
と、心配そうに名治子の顔を覗き込みながら尋ねた。
 「ええ……お恥ずかしい話ですが、わたくし自分の血を見るのがダメでしてね……ちょっとした出血でも気が遠くなってしまうんです。俗に言う、血管迷走神経反射というやつです」
名治子はいたって穏やかに説明した。真夏は「なんとか反射」のことはよくわからなかったがとにかく心配しすぎて損をしたかも知れない、とだけは思った。
 「深木くんと……お友達になったのですか」
名治子は尋ねてきた。不意に尋ねられて真夏は少し驚いたが、
 「うん。もんちゃんって呼ぶくらいの仲だよ。だから……ずっと心配してたんだ。初めは名治子に会うことだけが目的だったけど……色々あって、もんちゃんのことも気になってたの。その矢先に、こんなことに……」
と答え、少し表情を曇らせた。
 「……そうですか。これでまたなんとなく想像がつきました。わたくしの動向を探っているうちに、彼からわたくしの研究について聞いたのですね。昨日はもう一押しというところまでいっていた彼が急に今朝、Morphee Gear……あなたに以前聞かせた幻術マシーンを使った実験に参加することを渋り始めたので、何かがあったのだとは思っていましたが……きっとあなたが彼の心を動かしたのでしょう」
名治子は全く口惜しい様子は見せず、穏やかな笑みを浮かべたまま真夏に語った。
 「どうして笑ってるの? 私はさ、名治子にこんなことになって欲しくなかったんだよ……なにか研究を急いでるような、妙な感じがしたからさ……悪いことと、無茶はしないでねって直接伝えたかった……それなのに、結局こんなことになっちゃって、私、すごく悲しくて……」
真夏はまた少し目に涙を浮かべながら言った。
 「ああ、そういうことだったのですね……でも悲しまないでください。真夏ちゃんが悲しむと、わたくしも悲しくなってしまいます。……実際のところ、これは当然の報いであり、受けるべき罰の一つに過ぎないと言うのが適切でしょう。わたくしはとっくに、あなたが心配していることを実行に移してしまったのですから。そもそも、彼をあのように変貌させてしまったのは、わたくしが彼にとって”禁忌”となる者の名前をうっかり出してしまったからなのです。それもこれも、わたくしの責任です。だから、報いを受けるべき因果からわたくしを救ってくれたあなた達に感謝しているんですよ」
名治子は本当に、心底感謝している様子だった。真夏もそれをなんとなく理解し、袖で涙を拭った。そのとき、ベッドの近くの小さな棚の上に置かれた業務用のスマホに着信が入ってきた。
 「おや。真夏ちゃん、代わりに出てもらえますか? わたくしまだあまり動けなくて、すぐに手が届かないので……」
名治子にそう言われ、真夏はスマホを手に取る。そこには、赤森の名前が表示されていた。

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